青森・秋田・岩手・山形

2005.03.29

鶴岡城跡の鶴岡公園

鶴岡城跡の鶴岡公園内の大宝館
鶴岡カトリック教会・鶴岡駅・内川の千歳橋の下川面のさざ波、庄内藩校 致道館と
拝見しまして、庄内藩酒井家14万石の城下町として栄えた鶴岡の奥座敷で知られる
湯田川温泉は、江戸時代、庄内藩主の湯治場として利用されました小さな温泉町
ここでは、鶴岡出身の作家・藤沢周平・斎藤茂吉・横光利一などの文人墨客達が
逗留し執筆を重ね、そのなかの一軒は、竹久夢二の常宿だったといわれています。

2004.06.06

青森・三厩・碇ヶ関

 陸奥湾に面した浅虫温泉郷
ねぶた祭りの時期には花火大会が行われ夏の夜空を採ります。

三厩(みんまや)村
 一説によれば岩手県胆沢郡衣川村で討死しなかった義経がここまで
 逃れてきたが、北海道へ渡れなかったところ海岸の洞窟に三頭の
 竜馬がいたので三馬屋と呼ばれたと言う。
三厩の昔話
 津軽半島の突端・竜飛岬は青函トンネルの青森県側の入り口。
 この岬に黒神、十和田湖に美しい女神、秋田の男鹿半島には赤神が住んでいた。
 黒神は竜に乗って飛び女神に近ずき、赤神は鹿を使いにして近ずき、女神は迷い
 返事をのばしていると黒神と赤神は風を立て波をあげて戦いはじめた。
 八百万(やおよろず)の神は岩木山に登って見物した。
 赤神応援団の三割は左側に黒神応援団の七割は右側に陣取った。
 それで岩木山の右肩が下がっていると言う。
 黒神は勝って十和田湖にかけつけ女神をさがすが見つからず大きなため息をついた。
 その息で北海道が津軽から引きちぎられてしまったと言う。

南津軽郡碇ヶ関村碇ヶ関(いかりがせき)
 南北朝時代に設けられた山頂の道にできた関所。
 三笠公園に小説家・葛西善蔵の作品椎の若葉の最後の言葉
 ≪親愛なる椎の若葉よ 君の光の幾部分かを僕に恵め≫の文学碑が建つ。
 岩木山神社には森鴎外の小説山椒大夫の万寿姫・厨子王丸
 の霊を祀ってある。

東北地方には戸がつく地名が多い。
 一戸は岩手県二戸郡にある町 三戸は青森県の町 五戸は青森三戸郡にある町
 六戸・七戸は青森上北郡の町 八戸は青森県の市 九戸は岩手県の郡と町 

2004.06.05

弘前市

 津軽の夏祭り 青森ねぶた祭り
極彩色の勇壮な人形灯籠の周りをハネト呼ばれる踊り手が飛び跳ねる。
弘前ねぷた祭り
扇形の灯籠に凄艶な美女の立ち姿や水墨画が描かれています。
黒石ねぷた祭り
人形ねぷたと扇ねぷたあり表面の武者絵に対して背面に美人画が描かれます。

弘前市
 戦国時代の大浦為信は秀吉に津軽三郡を安堵され津軽と改名した。
 安土桃山時代(1588年)に津軽制覇をかけ南部信直と津軽為信の抗争があった。
 二代目の信牧が弘前城を築城。三層の天守閣は文化7年のもの。
 
弘前公園の片隅に福士幸次郎詩碑が建つ。
  ≪胸にひそむ火の叫びを雪ふらさう≫
 青森県弘前市生まれの詩人 詩集 太陽の子 展望があります。

弘前の昔話
 子を抱いて現れる津軽の雪めらし(雪女)は{抱いてくれ}と言い
 願いが適わないと災難をもたらすと言われた。
 弘前城宿直侍のまえに深夜子供を抱いた美女が現れ
 {雪道に大切な髪飾りを落としましたので}といい子供を託して姿を消した。
 子供はだんだん重くなり手足がしびれてきて意識を失った。
 同僚に捜され見つかった時はツララを抱いて気絶していたという。

お日様があがり晴れてきました。嬉しい幼稚園の親子遠足で裏磐梯桧原湖へ
毎朝不思議と決まった時間4時頃から煩い程鳴く鳥の声殆どカラスではあるが
4時半頃になると何処かへ飛んで行ってしまい静かになるが目が覚めてしまう。 

2004.06.04

津軽郡小湊

三内丸山遺跡 縄文時代前期~中期の大集落跡。
大型掘建柱建物や盛土遺構が発見され共同作業による計画的な村づくり
が窺(うかが)えます。植物の種子・漆器・カゴ・ヒスイ・土偶など発見。

東津軽郡平内町小湊
 夏泊崎(なつどまりさき) 大町桂月歌碑が建つ(明治の文人)
 ≪たてがみを海吹く風に靡かせて 馬ひとつたつ岩菊の原≫
小湊の昔話
一万数千本が自生する椿の北限地陸奥湾に突出する夏泊半島田沢の椿山。

越前の若者椿油売りが青森へ立ち寄り見かけた雌の善知鳥(うとう)
の亡がらを手厚く葬った。
小湊から田沢に向かう途中でうとう姫と連れになり恋をして椿の実を植えた。
椿が芽をふくと花の咲くころ必ず戻ると言い残し若者は旅立ち春が来て椿の花は
咲いたが戻らず三年目の花が咲く夜明けに命尽き、そこへ若者が船で戻った。
その後椿は毎年たとえ海が荒れても美しい花を沢山咲かせたと言う。

関連した話が青森の昔話
安方町の善知鳥神社で充恭天皇の頃鳥頭鳥中納言安潟がこの地に流されて
祠を建て市杵島姫・多紀理姫・多伎都姫の三女神を祀った。
公御夫妻の魂は死後一組の異鳥となって祠のまわりを飛び雌鳥はやすかた
鳴き里人は安潟夫妻の善知鳥と呼び敬ったと言う。 

2004.06.03

八戸市

築城400年を経てもほぼ全貌を残す弘前城。
 周囲の弘前公園桜祭りの時期桜越しに望む残雪を頂く美しい岩木山。

八戸市 平安後期、貢馬置牧(官牧)制度で作られた関所木戸の一つ。
 一戸~二戸は南門で三戸~五戸は西門(かど)
 南部氏の祈願所櫛引八幡宮は南部一ノ宮・奥州二ノ宮といわれる神社。
 市を流れる新井田川上流鷹ノ巣流域の丘に是川石器時代遺跡がある。

八戸の昔話
 是村に父の遺言{カブを食べておれば難儀しない}を守って住む若者蕪焼笹四郎は
 心優しい正直者で村人の思索により川に白土を流して下流に住む豪家の娘を嫁に
 と出かけ{川が白いのは笹四郎の召使いが米をとぐからだ}といい嫁にもらった。

 娘は嫁に来て粗末な家と焼蕪だけの食事に飽き米を買ってと金を出すと笹四郎は
 不思議に思いそれなら床下に沢山あると言い大判・小判を見せた。
 嫁の実家から父親と親戚がくる日に先日カッパを助けたお礼にもらった小槌を振り
 豪華なお屋敷で召使いにご馳走を出させた。
 帰りに外の暗闇は下男に命じて村の家々に火をつけその明かりで無事に帰した。
 その後焼けた家を新築してやり蕪焼長者と村人は呼んだと言う。

上北郡東北町千曳(ちびき)
 千曳神社の床下に征夷大将軍・坂上田村麿が弓の先で
 {この所日本の中央}と刻んだ霊石があると言う。

千曳の昔話
 この里の娘こ壷は石の上に現れる幻の若武者と恋をした。
 ある日地上の守りに残して置いた石文の和子(若武者)が愛欲の戒めを
 破ったので天から赤い矢が飛んできてささりなげき悲しむ娘に若武者は
  {たとえ亡びても魂は石に残りそなたの影身に添う}
 といい消える時軍馬の嘶きやトキの声が響き渡った。
 里人は驚き石を捨てようとしたが娘は
  {邪魔にならない所に移しますからお社を建てて下さい}と言い
 麓まで動かしたのでお堂を建てた。これが千曳神社の前身と言う。
 小壷は堂守りとなり、いつのまにかいなくなり、周りに壷スミレが咲いた。   

2004.06.02

むつ市大湊

奥入瀬渓流は十和田湖から14kmに渡り流れる奥入瀬川一帯。
渓流沿いの遊歩道を歩けば森の緑、木ぎの間からさす光、流れる滝、
水の流れが織りなす景観は美しいです。

青森県むつ市大湊はマサカリ型の下北半島の刃に当たる所に位置。
大湊の昔話
 単調で厳しい海岸線に突き出た佐井村矢越の岬に源頼義が鬼退治にきて
 海水で身を淨め八幡に祈った、すると7日目に形相のすごい鬼が現れた。
 鬼は妖術を使うので頼義は苦戦していると白衣の神が来てカブラ矢をつがえ
 頭を射抜き兵士は切り落とし、矢が越えて止まった所なので矢越となったと言う。
 頼義は神に感謝して石清水八幡宮を祀ったと言う。

むつ市田名部(たなべ)
 恐山頂上の円通寺の地蔵講で参詣すると死者の苦しみ患いを救えると言う。 
 7月20日~24日恐山大祭の祭典日に多くの巫女(いたこ)が死者の言葉を伝える。
田名部の昔話
 下北半島の中心部にある恐山は魚も住みつかない三途の川が山裾を流れ
 赤い汚水のよどむ池、賽の河原、剣の山など地獄の風景で火口湖の北岸
 には霊湯といわれる古滝、薬師などの温泉があり、東側に地蔵を祀る恐山
 円通寺は慈覚大師が唐の修業で霊夢によりこの温泉を教えられ地蔵経を
 さずかり、帰国して尋ね庵を構えて地蔵尊を彫り開山したと言う。
 地蔵尊は毎深夜に百三十六地獄を歩き錫杖の音が山々にこだまする。

2004.06.01

角館市

角館 陸奥の小京都
当時の面影を残す武家屋敷街・資料館・歴史村など
 街全体で歴史を伝えています。
角館町伝承館の枝垂れ桜・
 桧木内川のソメイヨシノなどが並ぶ桜並木。

角館市 
 南北朝時代後半に角館氏を名乗る菅氏が桧木内川と玉川にはさまれた
 この地方の領主と推測される。
 戸沢家盛に攻撃されて菅利邦が滅び角館城は戸沢氏の城となった。
 戸沢氏は平衡盛から改名戸沢衡盛が誕生し、衡盛の嫡子・兼盛は門屋
 (西木村)に門屋城築城した。
 その後16世紀にこの地に入ったのは佐竹義宣(よしのぶ)である。
 義宣は一族にそれぞれ城を与え戸沢氏が治めていた角館を
 弟の芦名盛重に与え、その後改名して芦名義勝となった。

 秋田街道には黒板塀が続き、シダレザクラのある武家屋敷が並ぶ。
 東勝楽丁の河原田家は角館町指定文化財で典型的な武家屋敷の面影残す。
 岩橋家は中級武家屋の間取りを残し、推定樹齢260年余カシワの木がある。
 青柳家は寄棟萱葺屋根の母屋・薬医門・蔵・のぞき窓のついた塀。
 安藤家は味噌醤油の製造をし蔵座敷として使われた土蔵が残る。

秋田県仙北郡中仙町の桜の名所八乙女公園は安部貞任がこの地にこもり
源義家の矢を止めたと言われ、名前に由来する槍見内(やりみない)駅があります。

秋田県 仙北郡仙南村の金沢城柵址は平安時代(1087年)源義家と
清原武衝・家衝兄弟が激戦した後三年の役で近くに後三年駅がある。
横手市には清原一族の城跡があり、ここの愛宕山は江戸時代に
奥羽の小野寺氏が築城したところで金貨が発見された。

大曲市 雄物川が南北から東西に大きく流れを変えるところにあります。
昔話 
人家の形をした長者が森と言われる山が岩手県境千畑村浪花吐出(はきだし)野
にあり、人々は昔ここにあった長者屋敷が森山になり、森の下にある犬に似た石は
長者の飼い犬で、家人が捨てた籾殻や堆肥が化けた糖塚森、肥塚森があると言う。

2004.05.31

秋田市

千秋公園 秋田佐竹二十万石の久保田城跡
 御隅櫓に歴史資料保存展示。二の丸・本丸に十二代藩主義堯像
 茶室・大手水鉢など、春の桜・ツツジ、夏のハスは美しいです。

佐竹義堯(さたけよしたか)は中村藩主・相馬益胤子として生まれ
秋田新田藩佐竹義純の養氏から藩主となり安政4年に宗家を継ぎ
戊辰戦争で藩内の平田学派層が新政府軍に協力して鶴岡藩兵と
戦い廃藩置県後は東京で侯爵となりました。

平安時代(876年)蜂起した蝦夷軍と政府軍が戦った秋田城跡は
奈良時代~平安時代に東北地方の出羽国に置かれた地方官庁
の遺跡で古代の政治・軍事・文化の中心でした。

国学四大人の一人平田篤胤は秋田藩大番組頭の四子として生まれた。
国学に精励し神道説を主張し、のちに秋田から尊皇攘夷の
担い手が出るきっかけをつくったと言われています。

秋田の昔話
 秋田市東北にそびえる太平山の三吉神社祭神巨人の三吉神は
 秋田地方一円に現れいろいろな事をしました。
 寛政時代に母親が薬師堂に日参してやっとさずかった力士・谷風梶之助
 一行が秋田城下で興行した日、三吉は痩せた男に化けて勝負を申し込んだ。
 一行の笑いをよそに谷風は笑わず摩利支天に祈ると
 {男は三吉で後ろが弱いから体に油をぬるように}のお告げがあり、
 土俵ぎわで身をかわしてやっと勝った。
 宿へ番頭に化けた三吉が現れ{掃除します}と言いつつ谷風が入っている
 風呂桶を片手で運び出し掃除済をまして一滴のお湯もこぼさず元に戻した。
 谷風は翌日出立したが昨夜の事は誰にも言わなかった。
 三吉神は幕末に佐竹藩が薩長軍に攻撃された時、日露戦争で秋田師団
 が大砲を山頂に上げる時も手助けしたと言う。

2004.05.30

男鹿半島

男鹿半島 
なだらかな草原が広がり先端が海に向かって断崖となっている
 入道崎の芝生に灯台そして磯からつらなる奇岩・断崖の景勝地。

12月31日なまはげ桧赤神社五社堂の神事。
鬼の面をつけ藁製の蓑を身につけ民家を訪れて怠者を戒める。

男鹿の昔話 なまはげ行事は真山神社が発祥地。
 漢の武帝が国を追われ五匹の鬼をつれて男鹿にやってきた。
 腹いせに鬼を酷使して休ませなかったので動けなくなってしまった。
 年に一度小正月の一日だけ休みを言い渡した。
 この日になると鬼は元気いっぱい村の家々をまわり酒を催促し子供を
 おどして主人に{この怠け者}と文句を言う。村人は平身低頭するばかり
 やがて武帝が帰国し鬼は毎日やってくる。
 困り果てた村人は{一夜で石段を千段築いたら娘をさしだす}と言う。
 喜んで一夜で2千段はできそうな仕事ぶりに村人は青くなり、
 九百九十九段で一人が一番鶏の声をまねると鬼は吃驚、千段目の石を
 放り投げ千年杉を引き抜き逆さに立て一目散に逃げたと言う。

秋田県由利郡象潟町
 蚶満寺境内に芭蕉句碑
 ≪象潟や雨に西施がねぶの花≫が建つ。

仁賀保町(にかほ)に明治20年~30年代にかけて湿田~乾田へ・人耕~馬耕へ
に功績を残した斎藤宇一郎(1866~1926年)記念館があります。 

2004.05.29

十和田南

abc44.jpg 
 白神山地 秋田と青森の県境によこたわる
 世界遺産に登録された約17000haの日本最大のブナ原生林です。
 周辺の太良峡・岳岱風景林・真瀬渓谷などから雄大な景色が見える。

秋田県 鹿角(かつの)市十和田南からバスで十和田湖へ
謡曲 錦木(にしきぎ)作者 世阿弥
 旅の僧は陸奥国狭布里で錦木を手にした男女が語る
 {恋した女の家に錦木を立て取り入れられれば思いがかなったしるしと言う}
 風習を聞きました。
 男女は3年間錦木を立てたが思いを遂げる事が出来ず死んだ男
 の錦木塚に案内しその中に消えてしまった。と言う内容

十和田南の昔話
 鹿角郡狭布(けふ)の里に五の宮の大鷲がきて次々に赤子をさらった。
 機織姫政子は雲水がおっしゃる言葉
  {白鳥の落ち毛を織り込んだ布を赤子に着せれば難は避けられる}
 を信じて毎日機を織った。
 草城の里に住む若者小門は姫を慕い門前に錦木を立てたが納めて
 もらえず3年3月目に機織を終えた姫と門前で逢え喜んだ。
 姫の父は2人の中を許さなかったので小門は断食で死に
 姫は淵に身をなげて後を追ったと言う。

八郎潟町(はちろうがた) 
 八郎という木樵(きこり)が大蛇となり崖をくずして湖を作ったと言う。
昔話
 十和田湖南に住むお花は大蛇の化けた男との間に八の太郎を産んで死んだ。
 八の太郎は若者に成長して岩魚を食べて非常に喉が渇き谷を次々せき止めて
 水を溜めては飲み続け7日目に渇きは止まり大蛇になった。
 出来た湖が十和田湖と言う。
 数百年が過ぎて藤原是真の孫・南祖坊は熊野権現のお告げ
 {ワラジの緒が切れたら止まれ}通り十年行脚して十和田湖で緒が切れた。
 ここで南祖坊は八の太郎を名乗る竜神とたたかい勝ち十和田湖主となった。
 八の太郎は八郎潟の主となったと言う。 

目覚まし時計のように鳴きつづける“カッコウ カッコウ・・・・”で
とうとう起きてしまったら気がついたのか鳴かなくなってしまった。
 5月も月末となり昨日のニュースはくるべくしてきた
   のかもしれないが余りにも寂しい知らせでした。
今日は白河へ行く予定ですがあいにくの曇り空でがっかりです。

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